<踊る新基準>
最近、日本人間ドック学会から“新たな健診の基本検査の基準範囲”なるものが発表され、週刊誌などで取り上げられて話題になっている。当クリニックへ受診されている患者さんからも最近よく質問される。わたし、もう薬飲まなくていい?
人間ドック学会がリリースした“新基準”と疾患に関する関連学会が示す“診断基準”という、背景と意義するところの全く異なる“基準”に混同があるようなので基本的なところを再確認しておきたい。
簡単なたとえをしよう。どのような人が心筋梗塞になりやすいか見つけ出す研究が企画されたとする。そこで、心筋梗塞を発症した人1,000人と心筋梗塞を発症していない人1,000人を集めて、両者の違いを明らかにするためいろいろ比較をしてみた。その結果、心筋梗塞を発症した群では家に灰皿のある人の割合が心筋梗塞を発症していない群よりも明らかに多いという事実が判明した。この事実から家に灰皿を置いておくと心筋梗塞になりやすいという結論が導かれた。これは正しい結論だろうか?・・・当然ながら答えはNoである。それでは、灰皿を家に置くことが心筋梗塞発症のリスクを高めることを科学的に確認するにはどうすればよいのだろうか?そのためには心筋梗塞をまだ発症していない人を2,000人集め、その人たちをでたらめに1,000人、1,000人の二つのグループに分け、一方のグループの人たちは家に灰皿を置いてもらい、他方のグループでは灰皿を置かないようにしてもらう。そして、そのまま5年、10年と気の遠くなるほどの年月観察を続け、両者に心筋梗塞の発症率において差があることを示さなくてはならないのだ。
前者のように異なる集団(心筋梗塞を発症した群と発症しない群)を比較することで違いを見つける研究を“横断研究”と呼び、後者のようにある集団(心筋梗塞を発症していない人たち)を経年的に追跡することで違いを見いだす研究を“縦断研究”あるいは“コホート研究”と呼ぶ。どんな因子(状態)が心筋梗塞発症に関連しているか調べるためには、後者のコホート研究をもって検討するしかないのである。人間ドック学会が行ったことは、受検者を異常群と健常群に分けて、(現時点で)健常群に属する人たちの数値を調べて基準を出したという極めて単純な横断研究であり、その数値で何年か過ごしても健常でいるかどうかを議論するための(保証するための)数値ではない。それに対して関連学会が提唱する診断基準は、その数値を超えた状態で時間が経過すれば疾患を発症する可能性が明らかに高くなる事実がコホート研究で確認された数値を示しており、その意義は根本的に異なっている。簡単に言えば、今の時点で健常であることを確認したければ人間ドック学会の新基準に基づいて判断すればよいのだけれど、将来も今のまま健常でありたいと考えるなら関連学会の診断基準に従うべきであるということである。
ところで、今でこそ常識となっているが、高血圧、高コレステロール血症、糖尿病、喫煙などが将来の心筋梗塞など心血管系疾患の発症に密接に関連しているという(すなわち危険因子である)事実を見つけ出すことは実は大変な作業であったことを理解する必要がある。経験も情報もまったく無の状態から将来疾患を発症する危険因子を特定するには相当数の対象者を、膨大な時間をかけて追跡しなくてはならない、まさに天文学的な労力と費用を要する大規模なコホート研究が必要となる。それをやり遂げたのが、歴史的事業と称されるべきFramingham Heart Studyである。1948年(昭和23年!!)、米国公衆衛生局(National Heart Institute)は米国における心血管系疾患による死亡率上昇に直面し、その発症と関連する共通の因子あるいは特徴(危険因子)を特定するための壮大な研究プロジェクトを開始した。米国北部マサチューセッツ州の町フラミンガム(Framingham)在住の30歳から62歳で心血管系疾患を発症していない男女5、209人が登録され、基本健診と生活習慣に関する詳細な聞き取りが行われた(すなわち候補となる多数の因子がリストされた)。その後、登録者は死亡するまで永続的に2年ごと検診を受け病歴聴取、身体検査、胸部レントゲン、心電図、そして血液検査が実施された。心筋梗塞など心血管系疾患の発症は医学的に検証され、死亡した際は可及的に剖検を実施することで死因を明らかににして、その後の予後が検討された。1971年には最初の登録者の子供ら第二世代の5,124人が追加登録され、この研究は現在も終結することなく継続しているのである。この研究により初めて、高血圧、高コレステロール血症、喫煙、肥満、糖尿病、運動不足が心血管系疾患発症の重要な危険因子であることが科学的に突き止められたのである。
このような、人類にとって本当に価値ある研究を昭和23年という早い時点で国家指導により実施している米国という国を思うとき、昨今の日本の状況には惨憺たるものがある。最近隣国で起こった悲惨なフェリー事故の対応を巡って国民が自国を「三流国家」と嘆いているとの報道を耳にしたが、ディオバン問題、そしてSTAP細胞問題を目の当たりにして、こと科学研究において日本はまさに三流国家か、それ以下であることが世界に露呈されてしまった。ディオバン問題ではマスコミはこぞって製薬会社の意図的操作を紛糾するが、あらゆる問題の帰属的な責任は研究の統括責任者にあるはずである。研究成果を世界的に評価されている学術誌に発表するからには、統括責任者はその研究のデザイン、データ集積からその解析、そして発表内容についてすべてを把握し、それが科学的に問題ないことにおいて100%責任を負う立場にある。統括責任者に私は知らなかったは許されないのである。製薬会社が薬剤にとって良いデータが出るよう機会あれば介入したいと考えるのはビジネスとしてある意味当然である。それを実行するか否かは会社というか、会社指導部のコンプライアンスの問題だが(ちなみに当該製薬会社で自分が知るMRさんは、有能であることはもちろんのこと誠実で礼儀正しい、ほんとうにいいやつばかりである)、それが行われてしまったとしたらそのようなスキを与え、歪曲された結果を科学的成果として発表したことに対しては統括責任者がその責を負うべきである。その結果、偽りの情報に多くの医師と患者が治療上の影響を受け、臨床研究の信頼性をおとしめた責任は極めて重大である。不正な意図的介入が事実なら、研究を指導した統括責任者は製薬会社以上に紛糾されるべきである。そして、科学者としてその責任を自覚したなら、科学を先導する立場にいるべきではない。ディオバン問題は日本の医療界の悪しき慣習のある意味スケープゴートであるが、科学的な臨床研究を行う上での責任の重大さを認識する重要な機会であると考える。その意味で、マスコミはこの問題を単なる製薬会社のコンプライアンスの問題として扱うのではなく、日本の臨床研究の現実に光を当て、そのあり方を問う問題として報道してもらいたいと思うのである。
STAP細胞問題について言えば、かのユニットリーダーは本当にすごい人だと心から感心する。Natureという世界最高峰の学術誌に、あのようなレベルの小細工が通用すると考えていることが、本当にすごい。いや、実際一時的にせよ通用したのだから、なかなかの大物なのだろう。もちろん問題の根源は、この科学者として甚だ未熟なユニットリーダーにあるのではなく、莫大な国家予算を消費する日本を代表するアカデミックな研究機関であるはずの理化学研究所が、このような研究者をリーダーとして雇用し、その不確実な研究成果をしっかり検証することもなく理化学研究所の名においてあのような次元でNatureに放ってしまったという、構造的な欠陥にある。STAP細胞問題は浮世離れした世界に住む世間知らずの住人により現実の世界が振り回されたまさに喜劇としか言いようがない。
喜劇と言えば、この騒動でふと昔見たピーター・セラーズ主演の映画「Being There」、邦題「チャンス」を思い出した・・・。
平成26年5月