<アンチエージング>
以前は思うような結果が得られなかった要因の多くは自分の努力不足であり思慮不足にあった。後から考えてみるとそれなりに思い当たる節があった。いい結果にならなかったことへの苛立ちは自分に向けるしかなかったが、次回はうまくやれるという戦略的な意味での納得はあった。ところが近頃、後から自己検証しても自分としてはそれなりにやったよなと思える状況で結果に満足していないことが出てくるようになった。次の機会も自分は同じようにやるだろうと考えると解決の糸口が見えてこない。以前はこんなではなかったと思っている自分を客観的にみると、これは認めたくはないが能力の限界ということで、そういうことが "年をとる"ということなのかもしれない。同じことが感性についてもいえる。かつてあれほど魅了されエキサイトしたことに意外なほど冷めている自分に驚くことがある。寂しいことではあるが、感性もやはり"年をとる"につれて薄らいでいくのであろうか。
・・・むかし、どこかで、誰かのエッセイかなにかで読んだことのある次のような内容の寓話を思い出した。
冒険家でもある屈指の大富豪が自ら車を運転して遠い異国の地を旅していた。ある日、とある片田舎で車が故障して動かなくなってしまった。日も暮れかかっていたので仕方なく一夜の宿をもとめて田舎道をとぼとぼ歩いて行くと、ようやく明かりのついた小さな一軒家を見つけることが出来た。ドアをノックするとあるじである身なりは貧相だが人の良さそうな婦人が出てきたので、事情を話すと快く家のなかに招き入れてくれた。部屋は粗末なテーブルと椅子そしてわずかばかりの家財があるだけでとてもつつましかった。空腹の彼にあるじはスープを温め固くなったパンを用意してくれたのだが、出された器は縁が欠け長い年月使い古されていることが明らかであった。生活するだけで精一杯であろうことが感じとられ彼はあるじに対する同情を禁じ得なかった。しばらくの雑談で打ち解けてきたころ、あるじはどうしても聞いてほしかったというように部屋の中でそれだけが真新しい窓のカーテンを指差し、その色合いがいかに秀でて美しいか、昼間は窓からそよぐ風にゆらいでどんなに心地よいか、そして夜には質素な部屋をいかに華やかにみせるか、一年近くこつこつ小銭を貯めようやく手に入れたというそのカーテンを目を輝かせて嬉しそうに自慢するのであった。そんなあるじを見ていて彼はふとこう思った。自分がたとえ世界で一番豪華なクルーズ船を購入したとしても、ここのあるじがそれほど高価とも思えないカーテンを手に入れて感じているようなこころからの満足感と幸福感を味わうことはできないであろうと。哀れむべきはもしかしたら所有する喜びが感じられないほど十分すぎる富を持った自分のほうかもしれないと・・・。
何が言いたいかというと、満たされすぎると達成感を味わう機会は少なくなるということだ。勤務医時代と比較して時間の自由度は大幅に改善した。限られた時間で複数の仕事をこなしていた頃と比べると、いくらでも時間と労力をかけることができる環境はモチベーションを鈍らせる。その気になればもっと完璧な成果が出せたはずだと考えると、どうしても物足りなさを感じてしまう。制約された時間の中で成し遂げた成果には達成感があるが、有り余る時間の中から出た結果には不充分さへの不満がつきまとう。アメリカ西海岸が圧倒的な憧れの地であった頃、そこへの旅をプランすると1ヶ月前から興奮で睡眠不足になり、出発前夜はまんじりともせず朝を迎えたものだった。西海岸への旅が年中行事のようになった今、旅が近づくにつれて気になるのは帰ってからの山積みとなった仕事のことである。フィルム写真しかなかった頃、偶然の瞬間を切り取るチャンスは一度しかなかった。しかも現像に出して戻ってくるまでその結果は未知であった。だから印象どおりの一枚が撮れたときの感慨はひとしおであった。デジタル時代となりシーンを連続でふんだんに撮り、その場で気に入った画像を選ぶことが可能になった。スマホが普及すると絵として失敗のない画像がいつでも好きなだけ残せるようになった。写真は心に残る一瞬を永遠に留めるオンリーワンの芸術から、複数枚ですべてを残す単なるイベント記録になってしまった。単焦点レンズをつけた一眼レフを携えて散策することが以前のようには魅力的に感じられなくなってきた。
・・・・そういうことなのだ。今の自分は単に満たされ過ぎた世界にいるということなのだ。それを"年をとった"などと勘違いしてはいけないのだ。
平成29年7月